INICIAR SESIÓN朝食の席には、銀器の触れ合う音だけが残っていた。
長い食卓の両端に置かれた燭台では、朝だというのに細い炎が燃えている。厚い雲が空を覆い、窓から入る光は青白かった。磨かれた卓上へ落ちる影も薄く、温かな料理の湯気だけが、不自然なほど鮮明に揺れている。
リディエラの正面には誰も座っていない。
公爵夫妻は王宮へ出向き、ミレシアは学院の礼拝へ先に向かったと聞かされた。用意されたのは、焼きたての白パン、香草を浮かべた卵料理、薄切りの果実、琥珀色の茶だった。
どれも美しく整えられている。
だが、背後に立つ侍女たちの呼吸は固い。
フェルニカの姿はなかった。
代わりに給仕を務めるのは、昨日までリディエラの前へ出る役目を持たなかった若い侍女だった。茶を注ぐ手が震え、銀の注ぎ口が杯の縁へ触れるたび、細い音が鳴る。
リディエラは何も言わなかった。
震えるなと命じることも、大丈夫だと慰めることもしなかった。自分が黙っているだけで相手を安心させられる段階ではない。余計な声をかければ、侍女は正しい返答を探し、さらに怯えるだけだろう。
茶には口をつけなかった。
医師が毒物を調べるために置いていった銀の細棒を、侍女の前で使うこともしなかった。疑われたと感じさせず、安全も確かめる方法を考え、先に同じ茶器から注がれた湯で口をすすいだ料理番へ確認を取らせた。
結果は異常なし。
それでも一口飲み込むまで、喉の奥は冷たく強ばったままだった。
視界の端では、赤い数字が減り続けている。
〈暗殺イベント開始まで:18時間42分09秒〉
その上に、別の表示が薄く浮かんでいた。
〈生存ポイント:97〉
たった3減っただけだ。
けれど昨日、謝罪と返還を選んだことで失われた3だった。
世界は、正しい悪役令嬢へ戻れと告げた。
昨夜、帳簿の下から現れた黒い紙片は、封筒へ入れて鍵付きの引き出しに残してある。
火へ近づけると、紙の表面に浮かんだ白い文字が一度だけ揺れた。燃やせば証拠を失う気がして、処分できなかった。今朝確かめると、文字は消え、代わりに黒い染みが指の形に残っていた。自分は触れていない。部屋へ入った者もいないはずだった。
〈正しい悪役令嬢へ戻ってください〉
あの命令が、単なる警告ではなかったのなら。
フェルニカへ謝罪した直後に生存ポイントが減ったように、誰かを傷つける行為を選べば、失った分が戻る可能性がある。
世界にとっての正しさと、自分が守ろうとしているものは、初めから逆向きなのかもしれない。
リディエラは冷めかけた茶の表面を見つめた。そこへ映る自分の顔は、細い波紋で何度も歪んでいる。何をすれば生きられるのかではなく、何をした人間として生き残るのか。その問いから逃げれば、たとえ命だけ残っても、この身体は再び誰かを傷つけるためのものになる。
その意味を考えながら、リディエラは白パンを小さくちぎった。表面の皮が指先で割れ、香ばしい匂いが立つ。空腹はある。身体は食事を求めているのに、口へ運ぶと味が遠かった。
食卓の向こうに、誰もいない椅子が並ぶ。
ミレシアは、いつもリディエラの斜め向かいへ座っていたらしい。身体に残る記憶の中で、蜂蜜色の髪の少女は小鳥のように首を傾げている。
「お姉様は、あまり召し上がらないのですね」
心配そうな声。
その一言のあと、母エネファは必ずリディエラの皿を見た。
王妃となる者が食事も管理できないのか。
細すぎれば貧相だと笑われ、少しでも多く食べれば節制を知らないと叱られる。どちらを選んでも正解はなかった。
ミレシアは悪意なく笑っていた。
少なくとも、記憶の中ではそう見えた。
リディエラはパンを口へ入れ、ゆっくり噛んだ。
誰かの機嫌のためではなく、自分の身体を動かすために食べる。
その小さな選択さえ、今は意識しなければできなかった。
食事を終え、最後の杯を卓上へ戻した時だった。
空中で、白い光が弾けた。
音はない。
それでも目の前へ刃を突きつけられたように、背筋が反応した。
淡い板状の光が、食卓の上へ開く。
〈白ミッション〉
文字の周囲には、雪の結晶に似た模様が浮かんでいる。
白。
難易度区分では、日常に分類される色だった。
リディエラは表示の続きを見た。
〈ミレシア・オルヴェインを、人前で平手打ちしてください〉
指先から熱が引いた。
背後の侍女が、空になった皿を下げる。衣擦れと銀器の音が近くで響くが、彼女たちには表示が見えていない。
〈制限時間:2時間〉
〈成功報酬:生存ポイント+5〉
〈失敗時:生存ポイント-20〉
残り時間が動き始める。
〈01時間59分59秒〉
〈01時間59分58秒〉
白い表示のはずなのに、数字だけが黒く沈んで見えた。
妹を打て。
人前で。
断れば、生存ポイントは77へ落ちる。
残りが0になれば世界が何をするのか、まだ分からない。けれど97から3を失っただけで警告が届いた。20という減少が、単なる数字で終わるはずはなかった。
リディエラは椅子の肘掛けへ指を置いた。
昨日フェルニカを傷つけた感触は、自分の記憶ではない。それでも爪の際に残った血の色は覚えている。
今度は、自分の意思で同じことをしろと命じられている。
相手はミレシア。
この世界から愛される妹。
身体の奥に眠る記憶が、ひとつの場面を押し上げた。
王立アルセリア学院の中央庭園。
白い石造りの回廊に囲まれた噴水の前。昼の休憩時間。生徒たちが集まる中、リディエラはミレシアを呼び止める。
理由は、王太子ティルヴァンへ近づいたこと。
あるいは、リディエラのドレスを汚したこと。
記憶は不自然に揺れ、原因だけが複数重なっていた。まるで同じ出来事が、少しずつ違う形で何度も繰り返されたかのようだった。
共通しているのは、最後だけ。
リディエラが妹の頬を打つ。
乾いた音が庭園へ響く。
ミレシアは頬を押さえ、涙を流す。
そこへティルヴァンとヴァルシェが現れる。
王太子は冷たい声で婚約者を制し、騎士は妹を庇って剣の柄へ手を置く。
周囲の生徒は囁き合う。
やはり姉は妹を虐げている。
王太子妃にふさわしくない。
その一打で、悪役令嬢という役割が誰の目にも明らかになる。
リディエラは膝の上で手を握った。
実行すれば、ミレシアを傷つける。
拒否すれば、生存ポイントを失う。
どちらかを選べと、世界は迫っている。
幼い頃、母も同じ方法を使った。
謝りなさい。
それが嫌なら、夕食はない。
学校へ行きなさい。
それが嫌なら、家から出ていきなさい。
選択肢の形をしていても、どちらにも罰が置かれている。選ばせた側だけが、自分は強制していないと言える。
リディエラは立ち上がった。
侍女たちの肩が同時に揺れる。
「学院へ参ります」
「馬車を、ご用意いたします」
年嵩の侍女が答えた。声は平静だったが、視線はリディエラの手元を警戒している。
「お願いします。それから、扇子を」
「どちらをお持ちいたしましょう」
リディエラは一瞬迷い、記憶の中の品を探した。
庭園の場面で持っていたのは、黒い羽根をあしらった扇子だった。骨は硬い黒檀。閉じれば細い棒のようになり、振るえば乾いた音が出る。
「黒檀のものを」
侍女の顔に、微かな緊張が走る。
その扇子で、過去にも誰かを打ったのかもしれない。
「承知いたしました」
衣装を整える間も、表示は消えなかった。
濃紺の学院服へ袖を通す。襟元を銀の留め具で止め、黒髪を低い位置でまとめる。侍女の指が髪へ触れるたび、わずかに震えていた。
鏡の中のリディエラは、冷たく整った顔をしている。
頬に迷いは見えない。
この顔なら、妹を打ちに行くと誰もが信じるだろう。
黒檀の扇子を渡される。
閉じたまま掌へ載せると、見た目以上に重かった。骨の角は硬く、まともに頬へ当てれば皮膚を裂くかもしれない。
リディエラは親指で扇子の端をなぞった。
妹へ触れず、命令だけを満たす方法。
表示には「平手打ちしてください」とある。
平手打ちとは、人の頬を掌で打つ行為を指す。
扇子を使えば厳密には違う。
だが身体の記憶に残る場面では、リディエラは扇子を振り上げ、その陰で手を動かしていた。遠くにいる者は扇子しか見ていない。聞こえた音とミレシアの反応によって、頬を打ったと認識する。
世界が求めているのは、実際の痛みなのか。
それとも、悪役令嬢が妹を打ったという光景なのか。
庭園での場面を思い返す。
音。
涙。
非難。
王太子と騎士の登場。
中心にあるのはミレシアの傷ではない。
周囲がリディエラを加害者と認識するための出来事だ。
「人前で」
命令文にある条件を、リディエラは小さく口にした。
人前である必要がある。
誰も見ていなければ達成されない。
ならば、観衆の認識が判定へ含まれている可能性が高い。
相手の頬へ触れなくても、打ったように見せられれば。
確証はない。
失敗すれば20を失う。
けれど、成功のために妹を傷つけることはできない。
リディエラは扇子を握り直した。
馬車が公爵邸の門を出る。
車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、座席が小さく揺れた。曇天の下、王都の建物は色を失って見える。パンを売る露店から小麦の焼ける匂いが流れ、行き交う人々の声が硝子越しに遠く響いた。
向かいの座席には、年嵩の侍女が座っている。
フェルニカではない。
彼女は膝の上で鞄を抱え、何度かリディエラへ目を向けては逸らした。
「お名前を伺っても?」
侍女の顔が強ばる。
「……わたくしの、でしょうか」
「はい。知らないまま命令するべきではありませんでした」
「マルタ・エインと申します」
「マルタ。学院へ着いたら、私について来なくて構いません」
「しかし、お世話を」
「必要になれば呼びます。あなたは人のいる場所で待っていてください」
マルタは扇子へ視線を落とした。
「フェルニカのようになると、お考えですか」
声はひどく小さかった。
それでもリディエラには届いた。
「私のそばにいれば、あなたが傷つくかもしれないとは考えています」
「……お嬢様が、傷つけるのではなく?」
問い返され、リディエラは窓の外を見た。
尖塔の並ぶ学院が近づいている。白い外壁の上で、紺色の旗が風にはためいていた。
「その可能性も含めてです」
自分が何をするかを、まだ自分でも完全には信じられない。
中身が依子であっても、身体にはリディエラの反射が残っている。怒りへ反応して手が動くかもしれない。命を守るため、妹を傷つける選択へ傾くかもしれない。
だからこそ、距離を取る。
善人になったと自分で決めつけるより、よほど安全だった。
馬車が学院の正門をくぐった。
石造りの校舎へ近づくにつれ、鐘の音と生徒たちの声が重なる。制服の裾が風に翻り、磨かれた靴の足音が中庭へ続いている。
リディエラが馬車を降りると、空気が変わった。
会話が一度途切れる。
次いで、押し殺した囁きが広がる。
「オルヴェイン公爵令嬢よ」
「フェルニカをまた打ったそうよ」
「医師が呼ばれたと聞いたわ」
「頬を切ったのでしょう」
誰も真正面からは見ない。
だが視線だけが、針のように肌へ刺さる。
リディエラは歩調を変えなかった。
弁解しても、フェルニカの傷は消えない。噂の中に誤りがあったとしても、自分が彼女を打った事実は変わらない。
中央庭園へ続く回廊は、白い柱が等間隔に並んでいた。磨かれた床へ靴音が反響し、近づく者の存在を早くから知らせる。
表示の時間は減っている。
〈制限時間:38分16秒〉
庭園へ出ると、噴水の水音が耳へ届いた。
中央には翼を広げた女神像が立ち、その足元から幾筋もの水が落ちている。周囲には冬でも花をつける白い低木が植えられ、湿った土と冷たい水の匂いが漂っていた。
昼前の休憩時間。
生徒たちは噴水の周囲や回廊の階段へ集まっている。
十分な数の観衆がいた。
そして白い花の前に、ミレシアが立っていた。
淡い蜂蜜色の髪が、曇り空の下でも柔らかく光っている。白を基調とした学院服は、姉の濃紺とは対照的だった。胸元には聖女候補を示す青い石が下がり、細い指がその鎖へ触れている。
彼女の周囲には、数人の令嬢がいた。
ミレシアがリディエラへ気づく。
空色の瞳が大きく見開かれた。
次いで、怯えたように肩が縮む。
まだ何も言っていない。
扇子を見せてもいない。
それなのに、妹はこれから起きることを知っているかのようだった。
周囲の令嬢たちもリディエラを見て、自然にミレシアのそばへ寄る。守るほどではなく、しかし姉妹の間を遮る位置へ。
身体の記憶と同じ配置だった。
噴水の音。
湿った風。
白い花。
遠巻きに集まる生徒。
すべてが、定められた場面へ収まっていく。
リディエラの背中を冷たい汗が伝った。
「ミレシア」
名を呼ぶ。
妹の肩が跳ねた。
「お姉様……」
声は細く、周囲へよく届いた。
令嬢たちが息を潜める。
遠くで笑っていた男子生徒も、こちらへ顔を向けた。
観衆の視線が集まる。
命令の条件が整っていく。
リディエラは一歩進んだ。
靴底が石畳を打つ。
ミレシアは逃げない。
怯えているように見えるのに、足は白い花壇の縁から動かなかった。俯きながらも、姉の動きを確かめるように、睫毛の隙間から視線を上げている。
「何か、私が至らないことをしてしまいましたか」
質問の形をしているが、答えを求める声ではなかった。
周囲へ向けた言葉。
これから姉に責められる理由が、自分には分からないと示すための言葉。
リディエラは妹の頬を見た。
白く、傷ひとつない。
ここへ自分の手で痛みを残せば、昨日と同じになる。
世界に命じられたから。
死にたくないから。
その理由があっても、打たれた側の痛みは変わらない。
〈制限時間:04分31秒〉
時間が急速に迫る。
リディエラは黒檀の扇子を取り出した。
庭園の空気が凍った。
誰かが小さく息を呑む。
ミレシアの瞳が、扇子の先を追う。
その表情に、純粋な恐怖とは異なるものが一瞬だけ浮かんだ。確認。安堵。待っていた位置へ駒が戻った時のような、僅かな緩み。
だが、すぐに消えた。
「お姉様、どうか……」
リディエラは右手で扇子を持ち上げた。
ゆっくりと。
誰の目にも見えるように。
黒い扇子が曇天を切り、肩より高く上がる。袖口から覗く手首が、冷たい風に晒された。
ミレシアの頬まで、あと一歩。
周囲の者は、扇子へ目を奪われている。
リディエラは左手を胸元へ上げた。
掌を外側へ向ける。
扇子を振り下ろす。
ミレシアの顔へ向けて。
その軌道が頬へ届く直前、リディエラは手首を内側へ返した。
黒檀の骨が、左の掌へ叩きつけられる。
ぱん、と鋭い音が響いた。
噴水の水音さえ途切れたように感じた。
左手へ焼けるような痛みが走る。硬い骨が掌の中央を打ち、指先まで痺れが広がった。反射的に息が漏れかける。
それでもリディエラは顔を歪めなかった。
身体の陰で打ったため、遠くからは扇子がミレシアの頬へ触れたように見えたはずだ。
妹の肌には触れていない。
風圧で蜂蜜色の髪が僅かに揺れただけだった。
ミレシアは動かなかった。
空色の瞳が、すぐ目の前の姉を見つめている。
頬に痛みがないことを、本人だけは確実に知っている。
空中の表示が激しく明滅した。
白い板の輪郭が崩れ、文字が何度も消えては戻る。
〈平手打ちの音を確認〉
〈対象への接触:未確認〉
次の行が乱れた。
〈観衆の認識:達成〉
〈加害判定:不確定〉
〈行動照合中〉
庭園には、まだ誰の声もなかった。
リディエラの左手が、遅れて震え始める。掌の内側に熱が集まり、扇子を握る右手にも汗が滲む。
表示の最後に、新しい文字が浮かんだ。
〈判定処理中〉
成功か失敗か。
世界はまだ決めていない。
リディエラは表示から目を離し、ミレシアを見た。
妹が真実を口にすれば、接触がなかったことは明らかになる。
黙れば、周囲は姉が妹を打ったと信じる。
ミッションの判定だけではない。
この瞬間、どちらの人間として立つのかを、ミレシア自身が選ぶことになる。
リディエラは弁解しなかった。
痛む左手を下ろし、妹の反応を待った。
ミレシアの細い指が、ゆっくりと持ち上がった。
読書室の時計が深夜を告げても、ティルヴァンは帰ろうとはしなかった。侍従にはすでに「呼ぶまで入るな」と告げてあり、閉ざされた扉の向こうから人の気配だけが薄く伝わってくる。暖炉の薪は半分ほど灰になり、窓硝子へ映る二人の姿も、揺れる火の光に合わせて何度も輪郭を失っていた。リディエラは斜め向かいの椅子に座ったまま、黒ミッションの残り時間を確認しないよう努めていた。 見れば焦る。焦れば、あと少しだけティルヴァンを押せばよいという考えが必ず浮かぶ。母の死、エルドの処刑、ロディマスとの関係、自分が十一歳だったという事実。そのどれか一つを強く言葉にすれば、赤くなった彼の目から涙を落とせるかもしれない。だからこそ、リディエラは何も足さなかった。 ティルヴァンは一度封筒へ戻したはずの手紙を、再び取り出した。レナ・ファネスが自分の手で作った写しであり、端には彼女の署名が残っている。父親が最後に家族へ残した手紙は、処刑の正当性について論じる文書ではなかった。妻の薬、家賃の支払日、娘の裁縫道具、冬物の外套を直す場所。その生活の途中へ、たった一行だけ王太子の名が入り込んでいた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 ティルヴァンが声に出した。すでに何度も読んだはずなのに、初めて読む文章のように一語ずつ区切っている。その指先は、ほかの行では止まらなかったのに、その一文へ戻るたび動きを失った。「子どもだった」 もう一度、低く繰り返す。 リディエラは返事をしなかった。そうです、あなたは十一歳でした、と言うことは簡単だったが、その言葉を彼が何のために求めているのか分からない。許してほしいのか、自分を責める材料として否定してほしいのか、それともただ事実を確かめたいのか。本人の言葉より先に意味を与えれば、また自分が答えを奪うことになる。「私は十一歳だった」 今度は、自分自身へ確認するようにティルヴァンが言った。「はい」「でも、王太子だった」「はい」「どちらも、本当なんだね」「そうだと思います」 ティルヴァンは紙から顔を上げなかった。王族として生まれた瞬間から、年齢とは別に役割が置かれていたのだろう。六歳で公式晩餐へ座り、八歳で外国使節を迎え、十歳で民衆の前に立った少年へ、周囲は子どもだから間違えてよいとは教えなかった。幼いのに立派だ、年齢以上に落ち着いている、未
暖炉の火が低くなり始めても、ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙を膝へ置いたまま動かなかった。封筒は折れていないのに、何度も握られた端だけが柔らかくなっており、濃紺の瞳にはまだ薄い赤みが残っている。涙は落ちていない。リディエラは向かいの椅子に座り、視界の隅で減り続ける黒ミッションの時間を一度だけ確認すると、すぐ表示を閉じた。「婚約者に、こんな話をするべきではなかった」 ティルヴァンは自嘲するように言い、椅子の背へ預けていた身体を起こした。乱れてもいない袖口を整え、膝の上の手紙も端を揃えて封筒へ戻そうとする。その一連の仕草が、崩れかけた自分を王太子の形へ戻しているように見えた。リディエラは「そう思われるのですか」とだけ尋ね、慰める言葉を先回りして置かなかった。「王族が弱みを見せれば利用される。幼い頃から、何度もそう教えられた。今さら忘れたわけではないのに、今日は話しすぎた」 ティルヴァンは水杯へ手を伸ばしたが、飲まずに戻した。母を失ったことも、エルドを告発したことも、父に褒められたかったことも、自分が正しかったと信じたかったことも、彼にとっては他人へ渡すべきでない情報なのだろう。リディエラは、黒い選択肢にあった「自分だけが理解者であると告げる」という言葉を思い出した。ここで「私だけには話してください」「私は裏切りません」と言えば、優しい婚約者として彼の最も近い場所へ座れるのかもしれない。「私が今聞いたことを利用すると思いますか」 ティルヴァンはすぐには否定しなかった。以前のリディエラなら、彼が何に傷つくかを知れば、それを避けて好かれようとし、必要なら逆に触れて相手を動かしただろうと静かに答える。今のリディエラが同じことをしない可能性は感じていても、未来まで保証できる材料はないという。その言葉は冷たかったが、リディエラ自身も同じことを考えていたため、否定できなかった。「その通りです。ですから、今後私へ話さないと決めても構いません」 ティルヴァンの眉がはっきり寄った。リディエラは彼の表情が変わっても説明を急がず、拒絶されたと感じる時間まで奪わないよう待った。暖炉で薪が割れ、乾いた音が読書室へ響く。やがてティルヴァンは、理解できないものを見るように彼女へ問い返した。「それでいいのか。普通なら、ここで『私だけには話してください』とか、『私はあなたを裏切り
読書室の暖炉では、薪が低い音を立てながら崩れていた。ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙の写しを膝へ置いたまま、先ほどからほとんど姿勢を変えていない。それでも王太子として人前に立つ時の整った座り方とは違い、背中は椅子へ預けられ、右肩だけがわずかに落ちている。リディエラも向かいの席へ座ったまま言葉を探さず、暖炉の火が揺れるのを見ていた。 黒い表示は視界の端へ残っている。〈黒ミッション残り時間:7時間02分18秒〉〈対象の涙:未確認〉 数字は減り続ける。ここまで来ても、ティルヴァンは泣いていない。母の死を語り、自分の証言で処刑されたかもしれない男の最後の手紙まで読んだ。それでも濃紺の瞳に涙は浮かばなかった。以前のリディエラなら、あと一言、もう一つ深い傷へ触れればよいと考えただろう。黒い画面も、きっと同じことを望んでいる。 リディエラは表示を閉じた。 残された7時間が自分の命に直結していても、それを目の前の人間へ背負わせることだけはしたくない。「母上を助けたかった」 不意にティルヴァンが言った。 リディエラは暖炉から視線を戻す。「十一歳の時ですか」「そう」 ティルヴァンは手紙ではなく、自分の両手を見ていた。「母上が体調を崩すことは、それ以前にもあった。でも、いつも数日で戻った。私は子どもだったから、病気というものは医師が来て薬を飲めば治ると思っていた」 声は静かだった。ただ、その静けさはこれまでのように感情を完全に押し込めたものではなく、言葉にしながら一つずつ確かめているように聞こえた。「エルドが薬瓶を持って部屋から出てきた時、何かがおかしいと思った。もし母上へ悪いものを飲ませようとしているなら、すぐ父上へ伝えなければならないと」「王妃陛下を守るために?」「それもあった」 少し間が空く。「父上に褒められたかった」 リディエラは瞬きをした。 ティルヴァンは目を伏せたまま続ける。「当時、父上は私へよく言っていた。王太子は、誰より早く危険へ気づかなければならない。臣下が見落とすものを見つけ、国を守る判断をしろ、と」 幼い少年へ与えられた言葉だった。王としては当然の教育だったのかもしれない。けれど十一歳の子どもにとって、父王から求められる「正しい判断」は、そのまま父に認められる方法でもあったのだろう。「エルドのことを報告した時、
ティルヴァンが息を吸ってから話し始めるまで、読書室には長い沈黙があった。暖炉の火が小さく鳴り、窓の外では夜へ向かう空が少しずつ青みを失っている。彼の膝にはエルド・ファネスの手紙の写しが開かれたまま置かれ、右手の親指だけが紙の端を押さえていた。そこには王妃を殺した人物の名も、毒を入れたという自白も、誰かを告発する文章もない。ただ死を目前にした父親が家族の暮らしを案じ、その中に一行だけ、十一歳の王太子を責めるなと書き残している。 リディエラは向かいから手紙を覗き込まなかった。すでに内容を知っているからでもあるが、今ティルヴァンがどの行で指を止め、どんな顔をしているかを観察すること自体が、黒いミッションのための材料集めに変わりそうだったからだ。残り時間は確実に減っている。それでも、彼が泣く兆候を探すためにこの場へ残ったのではないと、自分へ何度も言い聞かせた。「母上が倒れる前の日だった」 ティルヴァンの声は、いつもの王太子として話す時より低かった。「夕食のあと、私は父上の執務室から自分の部屋へ戻る途中だった。母上の私室の前を通った時、扉が開いた」 彼の視線は手紙に落ちたままだった。「出てきたのが、エルドだった」 リディエラは何も言わない。「母上付きの侍従だから、そこにいること自体は不自然ではなかった。でも、手に薬瓶を持っていた」 十一歳のティルヴァンが目にした場面が、彼の声だけで少しずつ輪郭を持っていく。王宮の長い夜の廊下。壁際の魔術灯。母の私室から出てくる侍従。そして男の手の中にある、小さな薬瓶。「どのような瓶でしたか」 リディエラが尋ねると、ティルヴァンは少し考えた。「茶色い硝子。掌に収まるくらい。母上が飲んでいた薬と同じ形だったと思う」「中身は?」「見ていない」 即答だった。「瓶の蓋が開いていたかも分からない。ただ、エルドがそれを持って母上の部屋から出てきた。それだけだ」 彼はそこで一度言葉を止めた。以前なら「だから疑うのは当然だった」と結論まで続けたのかもしれない。今は、見たものと考えたことを分けようとしているようだった。「エルドは殿下に気づきましたか」「気づいた。私へ礼をした」「何か話しましたか」「母上がもう休んでいる、と言った。私は、なぜ薬を持っているのか聞いた」「答えは?」「薬師へ戻すためだ、と」 ティルヴァ
王太子から届いた返書は、夜が明けても机の中央に置かれたままだった。ティルヴァンの整った文字は短く、何度読み返しても意味は変わらない。〈知りたい。ただし、君が私を傷つけるために見つけたものなら、今は聞きたくない〉。リディエラはその一文を前に、手紙の内容を知らせる許可をレナからまだ得ていないことを確かめるように、文書入れの鍵へ指を置いた。知りたいというティルヴァンの選択が出たからといって、今度はレナの選択を飛ばしてよい理由にはならない。 午前の講義が始まる前、リディエラは王都南区の仕立て屋へ短い使いを出した。公爵家の名ではなく、先日と同じ「リディエラ」の名で、エルド・ファネスの手紙について所有者へもう一度確認したいことがある、とだけ伝える。返事は昼前に届き、レナ自身が書いた紙には、王太子本人が知りたいと望んだのなら写しを見せてもよいこと、ただし一部分だけを抜き出さず、父の手紙を最後まで読ませてほしいことが記されていた。〈あの一文だけを、父が王太子を許した証拠にはしないでください〉という追記を読み、リディエラは何度も頷いた。 黒い表示は、そんな確認を待ってはくれなかった。視界の端では残り時間が減り続け、昼を過ぎた頃には〈黒ミッション残り時間:7時間18分42秒〉と表示されている。その下には〈高強度感情刺激候補:使用可能〉という文字が脈打ち、早く手紙を使えと急かすようだった。リディエラは表示を閉じ、レナから届いた許可書と写しを別々の封筒へ入れた。今日ティルヴァンへ渡すのは、攻略のための切り札ではなく、二人の人間がそれぞれ選んだ結果として開示される一通の手紙でなければならなかった。 面会の場所に指定されたのは、王太子執務室ではなく王宮東翼の小さな読書室だった。公務用の部屋ほど人の出入りがなく、それでも完全な私室ではない。扉の外には侍従が一人控え、室内には窓が二つ、暖炉の前に向かい合う椅子が置かれている。リディエラが入ると、ティルヴァンは窓際に立っていたが、彼女が持つ文書入れへ一度視線を落としてから、静かに席を勧めた。「返事を読みました」「だから来た?」「はい。ただ、その前に手紙の所有者へ、内容を殿下へお見せしてよいか改めて確認しました」「所有者?」「エルド・ファネスの娘です。レナ・ファネス。現在24歳で、王都南区で仕立て屋を営んでいます」 ティルヴァンの
レナ・ファネスから渡された手紙の写しは、帰宅してから一度も引き出しの奥へしまえなかった。 薄い紙一枚だった。原本ではない。レナ自身が必要な部分を写し、条件を決めたうえで預けたものだ。それでも机の上へ置いてあるだけで、黒い帳簿や王宮記録局の複写より重く感じた。窓の外では夜の王都へ細かな雨が降り始め、硝子を伝う水滴が燭台の光を何本にも歪めている。 リディエラは椅子へ座ったまま、写しの一行を見つめていた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 それ以外には、妻の薬代や家賃、娘の裁縫道具についての細かな指示が続いている。王家への呪いも、無実を叫ぶ言葉もない。だからこそ、その一行だけを切り離してティルヴァンへ差し出すことが、ひどく暴力的に思えた。 視界の隅で黒い表示が開く。〈黒ミッション残り時間:18時間43分17秒〉〈対象の涙:未確認〉 さらに、これまでになかった文字がその下へ浮かんだ。〈高強度感情刺激候補を検出〉〈関連対象:エルド・ファネス〉〈推奨使用:有効〉 リディエラは眉を寄せた。システムは、この紙を見つけた瞬間から用途を決めている。十一歳の自分が告発した男から、最後に「責めるな」と庇われていたと知れば、ティルヴァンの感情は大きく動く。罪悪感なのか、怒りなのか、悲しみなのかは関係ない。ただ本物の涙が出ればよい。 成功報酬は生存ポイント+30。失敗すれば-60。現在107だから、失敗後は47まで落ちる。黒い数字を眺めるほど、紙が手段に見えてくる。これを今夜王宮へ持っていき、ティルヴァンへ見せればいい。レナの許可が必要なら、内容を見せる前に取りに戻ればいい。その上で告発した日のことを尋ね、母の死とエルドの処刑を一緒に突きつける。それだけで達成する可能性は、これまでよりずっと高い。 リディエラは写しへ伸ばしかけた指を止めた。 目的が間違っている。 ティルヴァンが知るべきだから見せるのではない。本人が知りたいと望んだからでもない。自分が生き残るため、彼を泣かせるために見せようとしている。それでは、真実そのものを刃へ加工しているだけだった。 では、隠せばよいのか。 レナの父が最後に残した言葉を、自分だけが知ったまま封じる。ティルヴァンが生涯知らなかったとしても、「知らない方が幸せだ」と自分が判断して黙っている。そこまで考えると、