تسجيل الدخول朝食の席には、銀器の触れ合う音だけが残っていた。
長い食卓の両端に置かれた燭台では、朝だというのに細い炎が燃えている。厚い雲が空を覆い、窓から入る光は青白かった。磨かれた卓上へ落ちる影も薄く、温かな料理の湯気だけが、不自然なほど鮮明に揺れている。
リディエラの正面には誰も座っていない。
公爵夫妻は王宮へ出向き、ミレシアは学院の礼拝へ先に向かったと聞かされた。用意されたのは、焼きたての白パン、香草を浮かべた卵料理、薄切りの果実、琥珀色の茶だった。
どれも美しく整えられている。
だが、背後に立つ侍女たちの呼吸は固い。
フェルニカの姿はなかった。
代わりに給仕を務めるのは、昨日までリディエラの前へ出る役目を持たなかった若い侍女だった。茶を注ぐ手が震え、銀の注ぎ口が杯の縁へ触れるたび、細い音が鳴る。
リディエラは何も言わなかった。
震えるなと命じることも、大丈夫だと慰めることもしなかった。自分が黙っているだけで相手を安心させられる段階ではない。余計な声をかければ、侍女は正しい返答を探し、さらに怯えるだけだろう。
茶には口をつけなかった。
医師が毒物を調べるために置いていった銀の細棒を、侍女の前で使うこともしなかった。疑われたと感じさせず、安全も確かめる方法を考え、先に同じ茶器から注がれた湯で口をすすいだ料理番へ確認を取らせた。
結果は異常なし。
それでも一口飲み込むまで、喉の奥は冷たく強ばったままだった。
視界の端では、赤い数字が減り続けている。
〈暗殺イベント開始まで:18時間42分09秒〉
その上に、別の表示が薄く浮かんでいた。
〈生存ポイント:97〉
たった3減っただけだ。
けれど昨日、謝罪と返還を選んだことで失われた3だった。
世界は、正しい悪役令嬢へ戻れと告げた。
昨夜、帳簿の下から現れた黒い紙片は、封筒へ入れて鍵付きの引き出しに残してある。
火へ近づけると、紙の表面に浮かんだ白い文字が一度だけ揺れた。燃やせば証拠を失う気がして、処分できなかった。今朝確かめると、文字は消え、代わりに黒い染みが指の形に残っていた。自分は触れていない。部屋へ入った者もいないはずだった。
〈正しい悪役令嬢へ戻ってください〉
あの命令が、単なる警告ではなかったのなら。
フェルニカへ謝罪した直後に生存ポイントが減ったように、誰かを傷つける行為を選べば、失った分が戻る可能性がある。
世界にとっての正しさと、自分が守ろうとしているものは、初めから逆向きなのかもしれない。
リディエラは冷めかけた茶の表面を見つめた。そこへ映る自分の顔は、細い波紋で何度も歪んでいる。何をすれば生きられるのかではなく、何をした人間として生き残るのか。その問いから逃げれば、たとえ命だけ残っても、この身体は再び誰かを傷つけるためのものになる。
その意味を考えながら、リディエラは白パンを小さくちぎった。表面の皮が指先で割れ、香ばしい匂いが立つ。空腹はある。身体は食事を求めているのに、口へ運ぶと味が遠かった。
食卓の向こうに、誰もいない椅子が並ぶ。
ミレシアは、いつもリディエラの斜め向かいへ座っていたらしい。身体に残る記憶の中で、蜂蜜色の髪の少女は小鳥のように首を傾げている。
「お姉様は、あまり召し上がらないのですね」
心配そうな声。
その一言のあと、母エネファは必ずリディエラの皿を見た。
王妃となる者が食事も管理できないのか。
細すぎれば貧相だと笑われ、少しでも多く食べれば節制を知らないと叱られる。どちらを選んでも正解はなかった。
ミレシアは悪意なく笑っていた。
少なくとも、記憶の中ではそう見えた。
リディエラはパンを口へ入れ、ゆっくり噛んだ。
誰かの機嫌のためではなく、自分の身体を動かすために食べる。
その小さな選択さえ、今は意識しなければできなかった。
食事を終え、最後の杯を卓上へ戻した時だった。
空中で、白い光が弾けた。
音はない。
それでも目の前へ刃を突きつけられたように、背筋が反応した。
淡い板状の光が、食卓の上へ開く。
〈白ミッション〉
文字の周囲には、雪の結晶に似た模様が浮かんでいる。
白。
難易度区分では、日常に分類される色だった。
リディエラは表示の続きを見た。
〈ミレシア・オルヴェインを、人前で平手打ちしてください〉
指先から熱が引いた。
背後の侍女が、空になった皿を下げる。衣擦れと銀器の音が近くで響くが、彼女たちには表示が見えていない。
〈制限時間:2時間〉
〈成功報酬:生存ポイント+5〉
〈失敗時:生存ポイント-20〉
残り時間が動き始める。
〈01時間59分59秒〉
〈01時間59分58秒〉
白い表示のはずなのに、数字だけが黒く沈んで見えた。
妹を打て。
人前で。
断れば、生存ポイントは77へ落ちる。
残りが0になれば世界が何をするのか、まだ分からない。けれど97から3を失っただけで警告が届いた。20という減少が、単なる数字で終わるはずはなかった。
リディエラは椅子の肘掛けへ指を置いた。
昨日フェルニカを傷つけた感触は、自分の記憶ではない。それでも爪の際に残った血の色は覚えている。
今度は、自分の意思で同じことをしろと命じられている。
相手はミレシア。
この世界から愛される妹。
身体の奥に眠る記憶が、ひとつの場面を押し上げた。
王立アルセリア学院の中央庭園。
白い石造りの回廊に囲まれた噴水の前。昼の休憩時間。生徒たちが集まる中、リディエラはミレシアを呼び止める。
理由は、王太子ティルヴァンへ近づいたこと。
あるいは、リディエラのドレスを汚したこと。
記憶は不自然に揺れ、原因だけが複数重なっていた。まるで同じ出来事が、少しずつ違う形で何度も繰り返されたかのようだった。
共通しているのは、最後だけ。
リディエラが妹の頬を打つ。
乾いた音が庭園へ響く。
ミレシアは頬を押さえ、涙を流す。
そこへティルヴァンとヴァルシェが現れる。
王太子は冷たい声で婚約者を制し、騎士は妹を庇って剣の柄へ手を置く。
周囲の生徒は囁き合う。
やはり姉は妹を虐げている。
王太子妃にふさわしくない。
その一打で、悪役令嬢という役割が誰の目にも明らかになる。
リディエラは膝の上で手を握った。
実行すれば、ミレシアを傷つける。
拒否すれば、生存ポイントを失う。
どちらかを選べと、世界は迫っている。
幼い頃、母も同じ方法を使った。
謝りなさい。
それが嫌なら、夕食はない。
学校へ行きなさい。
それが嫌なら、家から出ていきなさい。
選択肢の形をしていても、どちらにも罰が置かれている。選ばせた側だけが、自分は強制していないと言える。
リディエラは立ち上がった。
侍女たちの肩が同時に揺れる。
「学院へ参ります」
「馬車を、ご用意いたします」
年嵩の侍女が答えた。声は平静だったが、視線はリディエラの手元を警戒している。
「お願いします。それから、扇子を」
「どちらをお持ちいたしましょう」
リディエラは一瞬迷い、記憶の中の品を探した。
庭園の場面で持っていたのは、黒い羽根をあしらった扇子だった。骨は硬い黒檀。閉じれば細い棒のようになり、振るえば乾いた音が出る。
「黒檀のものを」
侍女の顔に、微かな緊張が走る。
その扇子で、過去にも誰かを打ったのかもしれない。
「承知いたしました」
衣装を整える間も、表示は消えなかった。
濃紺の学院服へ袖を通す。襟元を銀の留め具で止め、黒髪を低い位置でまとめる。侍女の指が髪へ触れるたび、わずかに震えていた。
鏡の中のリディエラは、冷たく整った顔をしている。
頬に迷いは見えない。
この顔なら、妹を打ちに行くと誰もが信じるだろう。
黒檀の扇子を渡される。
閉じたまま掌へ載せると、見た目以上に重かった。骨の角は硬く、まともに頬へ当てれば皮膚を裂くかもしれない。
リディエラは親指で扇子の端をなぞった。
妹へ触れず、命令だけを満たす方法。
表示には「平手打ちしてください」とある。
平手打ちとは、人の頬を掌で打つ行為を指す。
扇子を使えば厳密には違う。
だが身体の記憶に残る場面では、リディエラは扇子を振り上げ、その陰で手を動かしていた。遠くにいる者は扇子しか見ていない。聞こえた音とミレシアの反応によって、頬を打ったと認識する。
世界が求めているのは、実際の痛みなのか。
それとも、悪役令嬢が妹を打ったという光景なのか。
庭園での場面を思い返す。
音。
涙。
非難。
王太子と騎士の登場。
中心にあるのはミレシアの傷ではない。
周囲がリディエラを加害者と認識するための出来事だ。
「人前で」
命令文にある条件を、リディエラは小さく口にした。
人前である必要がある。
誰も見ていなければ達成されない。
ならば、観衆の認識が判定へ含まれている可能性が高い。
相手の頬へ触れなくても、打ったように見せられれば。
確証はない。
失敗すれば20を失う。
けれど、成功のために妹を傷つけることはできない。
リディエラは扇子を握り直した。
馬車が公爵邸の門を出る。
車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、座席が小さく揺れた。曇天の下、王都の建物は色を失って見える。パンを売る露店から小麦の焼ける匂いが流れ、行き交う人々の声が硝子越しに遠く響いた。
向かいの座席には、年嵩の侍女が座っている。
フェルニカではない。
彼女は膝の上で鞄を抱え、何度かリディエラへ目を向けては逸らした。
「お名前を伺っても?」
侍女の顔が強ばる。
「……わたくしの、でしょうか」
「はい。知らないまま命令するべきではありませんでした」
「マルタ・エインと申します」
「マルタ。学院へ着いたら、私について来なくて構いません」
「しかし、お世話を」
「必要になれば呼びます。あなたは人のいる場所で待っていてください」
マルタは扇子へ視線を落とした。
「フェルニカのようになると、お考えですか」
声はひどく小さかった。
それでもリディエラには届いた。
「私のそばにいれば、あなたが傷つくかもしれないとは考えています」
「……お嬢様が、傷つけるのではなく?」
問い返され、リディエラは窓の外を見た。
尖塔の並ぶ学院が近づいている。白い外壁の上で、紺色の旗が風にはためいていた。
「その可能性も含めてです」
自分が何をするかを、まだ自分でも完全には信じられない。
中身が依子であっても、身体にはリディエラの反射が残っている。怒りへ反応して手が動くかもしれない。命を守るため、妹を傷つける選択へ傾くかもしれない。
だからこそ、距離を取る。
善人になったと自分で決めつけるより、よほど安全だった。
馬車が学院の正門をくぐった。
石造りの校舎へ近づくにつれ、鐘の音と生徒たちの声が重なる。制服の裾が風に翻り、磨かれた靴の足音が中庭へ続いている。
リディエラが馬車を降りると、空気が変わった。
会話が一度途切れる。
次いで、押し殺した囁きが広がる。
「オルヴェイン公爵令嬢よ」
「フェルニカをまた打ったそうよ」
「医師が呼ばれたと聞いたわ」
「頬を切ったのでしょう」
誰も真正面からは見ない。
だが視線だけが、針のように肌へ刺さる。
リディエラは歩調を変えなかった。
弁解しても、フェルニカの傷は消えない。噂の中に誤りがあったとしても、自分が彼女を打った事実は変わらない。
中央庭園へ続く回廊は、白い柱が等間隔に並んでいた。磨かれた床へ靴音が反響し、近づく者の存在を早くから知らせる。
表示の時間は減っている。
〈制限時間:38分16秒〉
庭園へ出ると、噴水の水音が耳へ届いた。
中央には翼を広げた女神像が立ち、その足元から幾筋もの水が落ちている。周囲には冬でも花をつける白い低木が植えられ、湿った土と冷たい水の匂いが漂っていた。
昼前の休憩時間。
生徒たちは噴水の周囲や回廊の階段へ集まっている。
十分な数の観衆がいた。
そして白い花の前に、ミレシアが立っていた。
淡い蜂蜜色の髪が、曇り空の下でも柔らかく光っている。白を基調とした学院服は、姉の濃紺とは対照的だった。胸元には聖女候補を示す青い石が下がり、細い指がその鎖へ触れている。
彼女の周囲には、数人の令嬢がいた。
ミレシアがリディエラへ気づく。
空色の瞳が大きく見開かれた。
次いで、怯えたように肩が縮む。
まだ何も言っていない。
扇子を見せてもいない。
それなのに、妹はこれから起きることを知っているかのようだった。
周囲の令嬢たちもリディエラを見て、自然にミレシアのそばへ寄る。守るほどではなく、しかし姉妹の間を遮る位置へ。
身体の記憶と同じ配置だった。
噴水の音。
湿った風。
白い花。
遠巻きに集まる生徒。
すべてが、定められた場面へ収まっていく。
リディエラの背中を冷たい汗が伝った。
「ミレシア」
名を呼ぶ。
妹の肩が跳ねた。
「お姉様……」
声は細く、周囲へよく届いた。
令嬢たちが息を潜める。
遠くで笑っていた男子生徒も、こちらへ顔を向けた。
観衆の視線が集まる。
命令の条件が整っていく。
リディエラは一歩進んだ。
靴底が石畳を打つ。
ミレシアは逃げない。
怯えているように見えるのに、足は白い花壇の縁から動かなかった。俯きながらも、姉の動きを確かめるように、睫毛の隙間から視線を上げている。
「何か、私が至らないことをしてしまいましたか」
質問の形をしているが、答えを求める声ではなかった。
周囲へ向けた言葉。
これから姉に責められる理由が、自分には分からないと示すための言葉。
リディエラは妹の頬を見た。
白く、傷ひとつない。
ここへ自分の手で痛みを残せば、昨日と同じになる。
世界に命じられたから。
死にたくないから。
その理由があっても、打たれた側の痛みは変わらない。
〈制限時間:04分31秒〉
時間が急速に迫る。
リディエラは黒檀の扇子を取り出した。
庭園の空気が凍った。
誰かが小さく息を呑む。
ミレシアの瞳が、扇子の先を追う。
その表情に、純粋な恐怖とは異なるものが一瞬だけ浮かんだ。確認。安堵。待っていた位置へ駒が戻った時のような、僅かな緩み。
だが、すぐに消えた。
「お姉様、どうか……」
リディエラは右手で扇子を持ち上げた。
ゆっくりと。
誰の目にも見えるように。
黒い扇子が曇天を切り、肩より高く上がる。袖口から覗く手首が、冷たい風に晒された。
ミレシアの頬まで、あと一歩。
周囲の者は、扇子へ目を奪われている。
リディエラは左手を胸元へ上げた。
掌を外側へ向ける。
扇子を振り下ろす。
ミレシアの顔へ向けて。
その軌道が頬へ届く直前、リディエラは手首を内側へ返した。
黒檀の骨が、左の掌へ叩きつけられる。
ぱん、と鋭い音が響いた。
噴水の水音さえ途切れたように感じた。
左手へ焼けるような痛みが走る。硬い骨が掌の中央を打ち、指先まで痺れが広がった。反射的に息が漏れかける。
それでもリディエラは顔を歪めなかった。
身体の陰で打ったため、遠くからは扇子がミレシアの頬へ触れたように見えたはずだ。
妹の肌には触れていない。
風圧で蜂蜜色の髪が僅かに揺れただけだった。
ミレシアは動かなかった。
空色の瞳が、すぐ目の前の姉を見つめている。
頬に痛みがないことを、本人だけは確実に知っている。
空中の表示が激しく明滅した。
白い板の輪郭が崩れ、文字が何度も消えては戻る。
〈平手打ちの音を確認〉
〈対象への接触:未確認〉
次の行が乱れた。
〈観衆の認識:達成〉
〈加害判定:不確定〉
〈行動照合中〉
庭園には、まだ誰の声もなかった。
リディエラの左手が、遅れて震え始める。掌の内側に熱が集まり、扇子を握る右手にも汗が滲む。
表示の最後に、新しい文字が浮かんだ。
〈判定処理中〉
成功か失敗か。
世界はまだ決めていない。
リディエラは表示から目を離し、ミレシアを見た。
妹が真実を口にすれば、接触がなかったことは明らかになる。
黙れば、周囲は姉が妹を打ったと信じる。
ミッションの判定だけではない。
この瞬間、どちらの人間として立つのかを、ミレシア自身が選ぶことになる。
リディエラは弁解しなかった。
痛む左手を下ろし、妹の反応を待った。
ミレシアの細い指が、ゆっくりと持ち上がった。
ロディマスを探すことに、リディエラは少し迷った。先王妃アリエネの葬儀や老犬ルーディの夜について聞いたばかりで、さらに王太子の内側を弟から引き出せば、結局は黒ミッションのために弱点を集めることになる。今朝決めたのは、泣く理由を作るのではなく、泣いても困らないと思える状況を探すことだった。そのために弟の秘密を利用するのなら、選択肢を閉じた意味がない。リディエラは黒い帳簿へ、「兄の傷ではなく、弟自身が兄との関係をどう感じているかだけを聞く」と一行書き、学院北側の小さな射場へ向かった。 午後の射場には乾いた草の匂いと弦が空気を切る短い音が漂っていた。ロディマスは王族用の練習区画で一人、標的へ矢を射ていたが、放たれた一本は中心からわずかに右へ外れた。白金の髪の少年は「外した」と低く呟き、次の矢を取ろうとして入口のリディエラに気づくと、明るい青の瞳を露骨に細めた。前に資料室で話した時より警戒が強く、弓を下ろしながらも自分から近づこうとはしない。「今度は何を聞きに来た」「少しだけ、お話しできればと思って」「兄上のことなら嫌だ。母上のことも、ルーディのことも話しただろ。あれ以上、兄上の弱みを教えるつもりはない」 返事は取りつく島もなかったが、それは当然の拒絶だった。ロディマスの立場から見れば、婚約者でありながら兄の過去を調べ回っているリディエラが、何かに使うため弱点を探しているように見えてもおかしくない。黒ミッションを抱えている以上、「絶対に利用しない」と将来まで保証することにもためらいがあったが、少なくとも今日ここへ来た目的だけは違う。リディエラは標的と少年の間を避け、射線から十分離れた場所に立った。「殿下を傷つける材料にするつもりはありません」 ロディマスの眉が動いた。「……兄上を?」「はい。今日は、あなたがお兄様といる時にどう感じているのかを聞きたいのです」「僕の気持ちを知って、どうする」「今は何もしません。ただ、殿下が誰かを守ろうとする時、守られる側にはどう見えるのかを知りたいと思いました。話したくなければ、ここで終わります」 風が射場を抜け、積まれた藁束を乾いた音で擦った。ロディマスはすぐには答えず、矢筒へ戻した矢羽を指先で整えながら、何度かリディエラの顔を確かめる。やがて彼は近くの長椅子へ腰を下ろし、弓を隣に置いた。話すと決めたというより、ど
目を覚ました時、窓の外はまだ朝になりきっていなかった。薄い雲の向こうから青白い光が差し、寝台の天蓋と床の境目を曖昧にしている。昨夜の雨は止んでいたが、窓硝子には水滴が残り、暖炉の灰からは湿った薪の匂いが漂っていた。リディエラは上掛けの中で一度深く息を吸い、視界の隅に残っている黒い表示へ目を向けた。〈黒ミッション残り時間:48時間00分00秒〉 数字が切り替わり、〈47時間59分59秒〉へ変わった。その下に見慣れない白い枠が開き、黒い画面の中央へ細い銀線が走る。これまでにはなかった項目が、命令ではなく助言を装うように静かに浮かんだ。〈推奨攻略〉〈先王妃アリエネ関連イベントを使用してください〉 リディエラの指先から、眠気が消えた。昨夜、ティルヴァンと向かい合って食事をしたばかりだった。香りの強い根菜を最後に食べる理由を聞き、雨の日を好む理由を聞いた。先王妃についてどこまで知ったのかと問われた時にも、彼が今その話を聞きたいかを確かめ、本人が「今日はいい」と答えたところで止めた。それを遠回りだとでも言いたげに、黒い画面がさらに広がった。〈推奨選択肢〉〈A:母親の死を責める〉〈B:無実の侍従を処刑した罪を指摘する〉〈C:母親の遺品を破壊する〉〈D:自身が理解者であると告げる〉 最初の3つを読んだ時には、嫌悪より先に身体が強ばった。だがDへ視線が移ったところで、リディエラはかえって長く画面を見つめた。一見すると、4つの中で最も穏やかだった。責めない。壊さない。罪を突きつけない。ただ、自分だけはあなたを理解していると伝えるだけだ。 孤独だったのですね。泣けなかったのですね。母上を失って苦しかったのでしょう。他の者には分からなくても、私は分かります――そんな言葉を柔らかな声で並べればいい。暴力も毒も使わず、相手を抱き締めるような形で心の奥へ入っていける。 セフィランの顔が浮かんだ。怒ってしまったのですね。妹を羨ましいと思ったのでしょう。愛されたいだけなのではありませんか。本人より先に感情へ名前をつけ、救いたいという善意で出口を狭めていく。Dは、それと何が違うのだろう。 自分だけが理解していると宣言するには、まずティルヴァンが何を感じているかをこちらで決めなければならない。母を失って悲しい。告発した侍従のことで罪悪感がある。誰にも弱さを見せられず孤独だ
王宮の小食堂には、雨の匂いが薄く入り込んでいた。 夕方から降り始めた雨が、高い硝子窓を細かな指先で叩いている。外はすでに暗く、庭園に並ぶ魔術灯だけが濡れた石畳へ青白い光を落としていた。 長い食卓の中央には、白い花と銀の燭台。 料理は2人分。 王も王妃もいない。 今夜は、王太子とその婚約者が今後の学院行事について確認するための、形式的な夕食会だった。 少なくとも表向きは。 リディエラはティルヴァンの向かいに座っていた。 濃紺の正装。 白金の髪。 背筋はいつも通り真っ直ぐで、ナイフを持つ角度まで乱れがない。 ティルヴァンは食事中もほとんど音を立てなかった。 給仕が皿を下げる時には僅かに身体を引き、次の皿が置かれる位置を見ずとも把握している。 それを見ながら、リディエラは不意に気づいた。 自分は、この人が食事をするところを何度見ただろう。 婚約したのは幼い頃だ。 王宮の晩餐。 公爵家での食事。 学院の茶会。 隣へ座った記憶はいくつもある。 それなのに。 彼が何を先に食べるか。 何を残すか。 熱い物と冷たい物のどちらを好むのか。 食事中に話す方なのか、静かな方なのか。 そういうことを、過去のリディエラはほとんど覚えていなかった。 覚えているのは別のことばかりだ。 王太子妃らしい姿勢。 失敗しない食器の扱い。 隣国の令嬢より豪華なドレス。 母エネファが認める髪型。 ティルヴァンが婚約を解消しないために、どう振る舞うべきか。 ずっと隣にいたはずなのに、彼を見ていなかった。 見ていたのは、彼の隣に立つ自分だった。「食欲がない?」 ティルヴァンの声で、リディエラは顔を上げた。「いえ」 皿を見る。 白身魚と香草。 半分ほどしか食べていない。「少し考え事をしていました」「毒のこと?」「今日は違います」「では、魔術灯?」「それも違います」 ティルヴァンの視線が一度、リディエラの顔を確かめるように動く。「珍しいね」「何がでしょう」「君が考えていることを、こちらから当てなくても答えるのが」 責める調子ではなかった。 ただ、過去との違いを記録するような言葉。「隠す必要のないことでしたので」「隠す必要があることは、まだ多い?」 黒ミッション。 システム。 好感度。 先王妃の記録。
旧王妃庭園へ続く渡り廊下の手前で、リディエラは足を止めた。 視界の隅では、黒い表示が時刻を刻み続けている。〈推奨接触時刻まで:08分42秒〉〈対象:ティルヴァン・エルグレード〉〈対象は旧王妃庭園へ移動中です〉 あと8分。 このまま進めば、会える。 システムがわざわざ時間と場所を指定したということは、そこにティルヴァンを泣かせるための何かがあるのだろう。 亡き母の庭園。 十一歳で失った王妃アリエネ。 母の死後も涙を見せなかった少年。 老犬の亡骸の前で、「僕が悲しめば、皆が困る」 と口にしたという記憶。 そこまで材料が揃えば、何をすればよいかは想像できる。 母親の話をする。 葬儀の日を尋ねる。 泣かなかった理由を問う。 昔の傷を丁寧に撫で、閉じ込めてきたものが溢れるまで待つ。 優しく行えば、暴力には見えない。 けれど目的は同じだ。 涙を得るために、相手の最も痛い場所へ触れる。 ネレスの言葉が蘇る。 ――一番触れられたくない傷を探して、そこを抉ればいい。 リディエラは旧王妃庭園へ続く扉を見た。 白い石造りの廊下。 先には王宮警備兵が2人立っている。 通ろうと思えば通れる。 王太子の正式な婚約者であるリディエラには、その資格がある。「お嬢様?」 後ろからマルタの声がした。「参られないのですか」「……今日はやめます」 システム表示が明滅する。〈推奨接触時刻まで:07分56秒〉 命令ではない。 推奨。 ならば従わなくても、今すぐ失敗にはならない。「別の場所へ行きます」「どちらへ?」「王宮記録局です」 マルタの目が僅かに見開かれた。「先王妃陛下について、もう少し確認します」「殿下へ直接お尋ねにならないのですか」「本人へ尋ねる前に、私が何も知らなさすぎます」 自分が知りたいからと、本人にすべて説明させる必要はない。 公開されている記録から確認できるところまでは、自分で調べる。 そのうえで、なお本人へ尋ねる必要があるのか考える。 リディエラは踵を返した。 背後で推奨時刻だけが減り続けている。 王宮記録局は、王城西翼の古い棟にあった。 白亜の華やかな中央宮殿とは違い、灰色の石壁に細い窓が並ぶ実務的な建物だ。扉の上に王冠と羽根筆を組み合わせた紋章が掲げられている。 入口で身分を確認
資料棟を出た時、時計塔は15時12分を指していた。 旧王妃庭園へ向かうよう示された時刻は16時10分。 視界の隅には、別の時間が減り続けている。〈黒ミッション残り時間:66時間49分37秒〉 リディエラは回廊の途中で足を止めた。 ティルヴァンの母アリエネが亡くなったこと。葬儀でも泣かなかったこと。母の老犬が死んだ夜、「僕が悲しめば、皆が困る」と口にしたこと。 知ってしまった。 だが、その知識を使うつもりはない。 旧王妃庭園で亡き母の話を故意に持ち出し、老犬の記憶へ触れる。泣いてもよいと優しく言いながら、涙が出るまで傷を撫で続ける。 そんなことをすれば、黒い表示は喜ぶかもしれない。 リディエラは嫌だった。 ただ、嫌だという感情だけで残り時間は止まらない。 もう一つ確かめたいことがある。 どこまでが無効で、どこからが「本人の感情」と判定されるのか。 身体を傷つけることは無効。薬も、魔術による強制も、演技も無効。 では、偽りの知らせによって本気で悲しませた涙はどうなる。 他人から誘導された感情でも、本人が本当に悲しめば有効なのか。 そんな境界を尋ねる相手として、一人だけ思い浮かんだ。 最も相談したくない男でもあった。 ネレス・カルヴァディン。 好感度11。未だ排除域。 毒を盛り、殺す理由を教えず、価値がある間だけ生かすと言った青年。 同時に、人間がどこで傷つくかをよく知っている。「マルタ」 少し後ろを歩いていた侍女が顔を上げる。「はい」「東棟へ寄ります」 マルタの表情が露骨に曇った。「ネレス様ですか」「おそらく」「またお茶を?」「飲みません」 即答すると、彼女は少しだけ安心したようだった。「人の多い場所で話します。前と同じように、少し離れていてください。ただし、私が杯に触れたら来てください」「今回は杯に触れないとおっしゃったばかりでは」「念のためです」「分かりました」 以前より、彼女は質問するようになった。 それが嫌ではなかった。 東棟の談話回廊は、午後の講義を終えた生徒たちで賑わっていた。 香辛料を練り込んだ焼き菓子の匂い。異国語の会話。窓のない回廊を風が通り、吊るされた布飾りを鳴らしている。 ネレスは、以前と同じ奥の席にいた。 今日は3人の男子生徒を相手に、札を使った遊戯をしている
旧王妃庭園へ向かうまで、まだ数時間あった。 黒いミッションは、視界の隅で時間を削り続けている。〈残り時間:69時間14分08秒〉 リディエラは表示を閉じた。 焦れば、傷つく言葉を探し、過去を暴き、泣くまで追い詰める方へ傾く。それをしないと決めたのなら、まず知るべきは「どうすれば泣くか」ではなく、「なぜ泣かないのか」だった。 王立アルセリア学院の中央資料棟には、王家に関する公刊記録も保存されている。 王太子の生い立ちそのものは秘密ではない。 むしろ、王位を継ぐ者の歩みとして積極的に残されていた。 リディエラは司書へ申請し、宮廷年報、王都新聞の縮刷版、学院行事記録を閲覧机へ運んでもらった。 高い窓から射し込む朝の光。 遠くで頁をめくる乾いた音。 黒い革表紙の宮廷年報を開く。 最初に出てきたのは、六歳のティルヴァンだった。 公式晩餐へ初めて出席した日の記録。〈王太子殿下は幼少ながら終始ご立派な態度を保たれ、諸侯の挨拶へ一人ずつお応えになった〉 添えられた記録画には、小さな白金の髪の少年がいる。 大人用の椅子へ座れば足が床へ届かないほど幼い。 それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、膝の上へ両手を置き、正面を見ている。 笑っていない。 怯えてもいない。 子どもらしい退屈さすら見えない。 次は八歳。 外国使節団を迎えた時の記録だった。〈殿下は使節の母国語による挨拶を披露され、両国友好の象徴として大きな称賛を受けられた〉 写真のティルヴァンは、やはり同じ顔をしている。 唇の角度まで整っているように見えた。 十歳。 王太子として初めて民衆の前で短い演説を行った。〈未来の王としての責任をすでに深く理解しておられる〉 どの記録も褒めている。 泣かなかった。 取り乱さなかった。 怯えなかった。 失敗しなかった。 そのすべてが、美徳として同じ方向へ積まれていた。 リディエラは紙の余白へ簡単に書き留める。 六歳――公式晩餐。 八歳――外国使節。 十歳――初演説。 すべて「落ち着いていた」「立派だった」「年齢以上」と評価。 子どもらしい感情が記録されていない。 羽根筆を止める。 記録にないことと、存在しなかったことは違う。それでも、周囲が何を価値あるものとして残したかは分かる。 感情を抑えられる王子。 乱れない







